ふしぎラボの作品は
こちらから



「口が悪いエイシアさんのいろんなケースを例に出したありがたいお説教に見せかけて実は悪口を言いたいだけなんじゃないかって話」のFAQコーナー

※質問は随時更新されます。

質問がある場合はこちらまで。

 

みなさん、はじめまして・・ですね。

わたしはセラスといいます。このたびは母の雑言に耳を傾けて下さり

ありがとうございます。

母より皆さんからご質問があったら答えるように言いつかりましたが、わたしで答えられる範囲のことしかお答えすることができませんので、期待に添えなかったらごめんなさい。

それでは、よろしくお願い致します。

 

(2015/06/06) その他の質問

ある事柄への疑問につき、二つ御質問させていただきたく、お書きします。


一つ目の質問です 「それと分かった上での不協和とその意識の伝播について」


昨今、よく「ブラック企業」という単語が目立つようになりました。実際、事例としてとりざたされるような、「振り切ったブラック」は別としても、そうでなくとも、多くの人間が現状の労働環境や市場に対して(職種、業態はちがえども)それぞれに違和感を覚えているように思います、実際私の周りの顔見知りの範囲だけでも、程度の差はあれ、それぞれに厳しい話を聞いています。


各事例を個別に追い出すとキリが無いですが、今回は、そうしたモノをみるにつけ、日ごろ感じていた違和感につき次のようなものがあります。


細かな定義があるのかは分かりませんが、上記した「ブラック」という言葉がさすところについて、最近の例に倣えば「すき家」や「ワタミ」等の外食産業、またこの単語が最初に有名になった2chのスレで言えばたしか「プログラマー」でしたが、いずれも「長い拘束時間」や「荒い人使い」または「内容に比さない薄給」等でしょうか、とりあえずその前提でお書きしますが、、


これらの条件がいずれも過酷でひどく不快なものであることは、おおよそ誰にとってもそうであるとは思いますが、しかし、私の周りの人間や、私個人の漠然とした主観でいえば、こうした「労働環境や市場の形について」それを是正しようとするものはほぼおらず、どころか、むしろ積極的なまでに加担している人たちばかりのように見えてしまいます。


もちろん、それらはワタミのトップのような立場の人間ではなく、現場側の、、そうした環境におかれている側の人間で、です。


こうした所について、話をふったとき、彼らが共通して言うことは「しょーがない」や「そーいうものだろ」等です。

いわく、いったところで変わるわけでなし、実際そうなんだからその中でやるしかないじゃん、や、さしあたって家族(ないしは自分)が食えればそれでいい等です。

これらは職種や収入、労働環境の程度の差によらず、直接話した範囲だけでも、みな決まった様に似た反応、上のような答えを返してきます。 また、相手によってはそうしたところに疑問を持つこと自体が悪であるかのように、ヒステリーじみた反応を返す人もいました。


さて、生活環境は人それぞれですので、どんな答えを返されたところで、その良し悪しのところなんて、他人が踏み込むところでも無いと思ってはいますが、ただ、それと同じくらいに即答で「私は今のこのブラックな環境が大好き!大賛成!」と答える人にも出会ったことはありません。


ようは、みな日々しんどいとは思っているし、また単純なしんどさ以上に、今のこうした環境にもっと得体の知れない違和感も感じてはいるのかもしれませんが、それを押して尚、目の前の「ちゃぶ台」を守ることが最優先になっているだけと感じました。


言葉が適切か分かりませんが、あえてこうした側の人間を「被害者」としたとき、不思議なことに皆一様に、それぞれに違和感や不協和を感じつつも、結果としてはむしろ積極的に「加害者」に加担するほうへと動いているのです。


このようになる要因は最早追いきれぬ程にたくさんあるでしょうし、この解決策も(興味深くはありますが)これといった解答が容易にだせるものでないとは思います。

しかし、こうした事柄につき、どうしても「うむむ、、」となってしまうところがあり、それが今回の質問の表題に書いたところなのですが、彼らはこうした考えや思考の運び方を、必ずまだそうで無い人間に伝播させ、または無理やりにでも染めようとするところがあるなと感じたのです。


例としてまず「会社」等の場合ですと、毎日の残業や当たり前の休日出勤にさらされているような人間ですら、何故かその状況がいかに「正しいか」を説きはじめ、理解をもとめてきます。

また、ブラックとはいえない程度の場所であっても際限の無い「目標」や「成長」を掲げ(私はこうした平均的な企業姿勢を永久に終わらないダッシュマラソンと呼んでいますが)そうした流れに則って、企業人的な思考と出世前提の振る舞いへの恭順を求めてきます。(後者の例で言えば、たしかに組織的なところに入った段階で、その行動はそうなのかもしれませんが、考え方や振る舞い等、結果として「労働」以外に及ぶ、生き方そのものにすら影響しうるような「志向」に対してもうちの流儀にならえはなにか恐ろしいものを感じます。)

また個人職の強い「職人」等、技術系ですと、わずかでも満足のいかない技術者であった場合には、平気で追い出しをかけるための「いじめ」を行ったり、違法とはいえないまでも、水増しのような作業で利益を上げたり、前後の行程やそこを受け持つ別の担当者をかえりみない作業等「グレーな仕事」を行う例があり、それですら、疑問を投げるとそれぞれの理由から「正しさ」を説き始めます。(しかし、正しさを説く割には、やはり例の「しかたがない」が冠につくので、やはり後ろめたいことをしている自覚はあったのだと思います)


いずれの例にしろ、そこに入る前の段階や、もしくは学生の段階等でこうした事例に考えを求めれば、流石に、そこに疑問や納得のいかない感情を抱く人間が一人もいないということは無いと思うのですが、社会に出て以降は、確実にそこに染まるよう圧力がかかります。


私が疑問として思うのは、良し悪しのところは別としても、「そうなる前には疑問に思い」「自分でも苦しい」と思うことをどうして「まだそうで無い人間にもそうなるように求めるのか」というところです。


こうした話をたずねたり、疑問に思うのは、私が「あまったれた人間」だからなのかもしれませんが、こうした意識の変遷をこそが、労働環境にかかる色々の不協和のキーになっているのではないかと思うのです。


こうした意識の流れについて、ご見解やお考え等をお聞かせ願えますようお願いいたします。



また、二つ目の質問として「それらを踏まえたうえでの行動として、どのような選択が考えうるか?」


上に書いた内容につけ、個人的な仕事観として、それ自体を生きがいにしているような場合を除き、基本的には、労働は生活の糧を得るための域はでないものと考えているので、あらためてその「良し悪し」は別としても、「労働としての作業以外」にかかる、「志向や振る舞い」をまで業務の範囲に含まれるのは納得がいかないので、そうした思考の伝播は今までなるたけ避けて来たのですが、しかし、実際、それにノーを示せば、「じゃあ、やめたら?」となりますし、HPでの質問コーナーにありました「良禽は木を択んで棲む」ではないですが、「同じ黒でもまだ合う黒」を探すのも手かもしれません。

ですが、現状の「ブラック」がさすところには、そうした仕事の変遷を容易に認めない労働市場の特性もありますし、おそらくおいそれと、「木を択びなおす」ことは現実には難しいと思います。


かといって「フリーランス」や「起業」を選択できるような「スキル」をもった人間が、そこまで多いとも思えません。(かくいう私もそうですがw) (ただ、この点については、選択の取捨の中で自身の能力を棚に上げて、環境に転化するような真似はさすがにしたくないので、あくまでも全体としての話ですが)

選択を行う中で、その職種がなんであれ、自身がそれと決めてはじめた所で、その業務それ自体に不満を言うようなことはしてはいけないと思いますし、その遂行には力を入れるべきだとは思いますが(少し話はずれますが、よくそこそこ年の行かれた方(特に男性に顕著)等がコンビニやファミレスでバイトする際、見た目に分かるくらいふてくされて仕事をしている方がいて、また実際に話をした中でそうした方々の態度を擁護する方もいましたが、流石にあれは違うと思います)


しかし、上述しましたように、直接の仕事としての業務の範疇を超えるようなところへの恭順については、どうしても強い違和感を覚えてしまうのです。


これも明確な答えのでる話では無いのかもしれませんが、こうした中で、では「どのような振る舞い、選択が取れるでしょうか?」この点についてのお知恵と、また、ここに書いた、そうしたところに思う「私の考え方」について、未だ経験の浅い身の上ですので、エイシア様の観点から何か思う所がございましたら、これも是非、お聞かせいただきたく願います。


ご質問をいただきありがとうございます。

文章を拝読させていただきました。

 

まず言わせていただきたいのですが、あなたがこの現状に違和感を、そして不満を持っているということは、裏を返せばあなたにそれだけ成長する「伸びしろ」があるということです。(不満がなければ伸びしろがないという意味ではありませんよ。)

今回は、質問のお答えをさせていただく代わりに、長くなりますがこんなエピソードをお話しいたします。このエピソードで何らかのヒントを感じていただけたらわたしもうれしいです。


 

とある男の人があなたの世界の「大学」に進学したとき、そこで学業以外で何かサークル活動をしようと思い立ったそうで、とある体育会系のサークルに入ってそこでそれなりに楽しくサークル活動を行っていたそうですが、秋になって学園祭が近づくとある事実を聞かされます。

それは大学内の全サークルの一回生は学園祭の「芸能合戦」と呼ばれる催し物に出なければいけないということです。その「芸能合戦」とは芸とはとても呼べないような下劣なもので、それを最上級の大学院生数名の方々がステージの前に陣取って「審査」するのですが、酒の一気飲みの強要は当たり前で、つまらなければわざわざ用意した生卵や水風船を投げつけたり、ステージ横にある側溝に全員飛び込めと強要するなどと、それはひどいものだったそうです。

 

彼はそれを聞いて嫌で仕方がなかったそうですが、なにせ体育会系のノリが色濃いサークルだったので先輩の言葉には逆らうことはできなかったそうです。果たして彼は同期の数名と一緒にステージに立たされ仕込まれた踊りを踊らされたわけですが、それが幸か不幸か審査している方々や観衆に大ウケしてしまい、アンコールまでさせられる始末だったそうです。

 

その後しばらくして彼はそのサークルを辞めました。理由はいろいろあったようですが、その「芸能合戦」は原因の一つであったようです。彼の後輩になるであろう人たちに「芸」を仕込む立場になることに耐えることができなかったのでしょう。

そして彼が次に活動の場として選んだのは「学園祭の実行委員」でした。それは学園祭の実行委員に入ることでもしあの忌まわしき「芸能合戦」を廃止できれば後輩たちにあんな思いをさせずにすむという思いもあったのでしょう。

 

とはいえ彼一人だけの力で長く行われており「伝統」とまで言われていた「芸能合戦」を簡単に廃止することはできなかったそうです。「昔からやっているから」とか「先輩方の意向だから仕方がない」と抵抗意見が多かった中で、「俺達も一回生の時にはやらされているんだから下の連中がやるのは当たり前だろう」という理不尽とも思える意見が正論としてまかり通っていたからです。

 

そうして彼が二回生、三回生と歳を重ねますが毎年「芸能合戦」は行われていったそうです。彼としては運営側にいながらどうすることもできず忸怩たる思いだったことでしょう。

そして彼が四回生、その年が彼にとって最後の学園祭となるのですが、その年もやはり「芸能合戦」は行われました。彼は学園祭実行委員の一員として「芸能合戦」の警備をすることになったのですが、彼はその職務を全うすることはできなかったそうです。何故かと言うと「芸能合戦」が始まってからしばらくすると彼は涙が止まらなくなってしまい、いたたまれなくなってしまってその場を離れてしまったからです。彼は同期から叱責を受けたそうですが、その泣いてその場を立ち去る様子を複数の後輩(学園祭実行委員の彼より下の学年)が見ていたらしく、後に後輩たちは彼と一時期同じサークルにいて親しくしていて同じく学園祭実行委員に入った彼の同期から事情を聞き、彼が抱えていたつらい思いを知ることになったそうです。

 

その後彼は大学を卒業してその後輩たちが学園祭実行委員の中核を担う学年になった時に彼の後輩たちは事を起こしました。本格的に「芸能合戦」を廃止しようと動き出したのです。「あの先輩が流した涙の意味を思いだせ」という言葉を学園祭実行委員全員の胸に留めつつ各サークルへ働きかけたそうです。激しい抵抗には見舞われたもののついには学園祭スケジュールから「芸能合戦」を駆逐することに成功したのだそうです。

 

もしかしたら彼が学園祭実行委員になっていなかったら、学園祭実行委員になっても涙を流さず警備を続けていたら「芸能合戦」はまだ長く続いていたかもしれませんし、ゆくゆくは廃止になったかもしれませんが、彼の言動が「芸能合戦」廃止の道筋をつけた(もしくは早めた)ことは確かなのでしょう。


 

つらい思い出も時が経てば楽しい思い出になるといいますが、彼にとっては一生消えることのないつらい思い出だったかもしれません。しかし、彼の言動が大学という小さいコミュニティではありますが良い影響を残すことができたと思えば少しは気が晴れるかもしれませんね。


長くお話させていただきましたが、あなたの意に沿うお答えは見つかりましたでしょうか。